住職レター 2024

12月                                     
 年末を迎えるからという訳ではありませんが、いろんな物を片付けています。一度にやると大変なので、空いた時間に、少しずつ整理しています。ゆえに、一向に片付けが進まないのか、逆に少しずつ断捨離できているではないかと、前向きに捉えて良いのか。

 断捨離の極意とは、物を減らすことで、空間が片付き、思考が整うとありました。よく分からない解釈ですが、仏教の教えに、物に執着し過ぎると心が乱れ、平穏を失うとありますので、これに近いのかな?と、思ってます。


 本堂の裏には、使わなくなった古い仏具が、所狭しと置いてあります。あきらかに使えない仏具です。一つ一つ手に取ると、使えなくなったとは言え、作りが良いので、思わず見惚れてしまいます。一対の仏具、双方の破損した箇所を繋げ合わせれば、使える形にはなりますが、すると二つが一つになってしまい、用を成さなくなります。また古い教本、仏教書、蔵書、歴史を感じさせる書物にも、手を付けられません。あと、古い書き物。何が書かれているのか判読できず、これらの整理整頓は、また後回しです。


 今回こそは、片付けようと思うも、結局は前に進むことが出来ません。そして最後には、これって、物に執着ではなく、物を大切にしていることだと、無理やり言い聞かせて、片付け終了です。(笑)


 年末の大掃除、無理しないで下さいね。

1月                                     

 各ご門徒宅の報恩講参りが始まりました。毎年の恒例行事ゆえ、いつも同じお声を耳にします。「住職さん、一年が早うたちますね~」と。確かに・・・。年々、月日の移ろいを早く感じます。

 この「報恩講」という名称は、親鸞聖人のひ孫である本願寺第三代覚如上人が、親鸞聖人の三十三回忌にあわせて『報恩講私記』を著されたことに由来しています。阿弥陀如来の本願のおこころを明らかにして下さった宗祖親鸞聖人のご遺徳を偲び、そのご恩に感謝の思いからお勤めされる、浄土真宗でもっとも大切な法要です。

 報恩講はお寺でお勤めされるだけではなく、古くから広くご門徒の家庭でもお勤めされてきました。地方によっては、「親の法事はもちろん大切だけど、報恩講はさらに大切」とまで言われるほどです。

 先日(十月十九日)、善教寺護持会の報恩講を、無事に勤め終えました。善教寺の護持会は、善教寺総代・世話係による、善教寺を護持する組織です。護持会役員の皆さまの尽力により、今年も報恩講を勤めることが出来ました。

 来月(十二月二日)には、善教寺の報恩講を勤めます。当日は、柏原地区のお同行の皆さまがお接待当番を担って下さいます。お昼は、従来通り報恩講様式でのお斎接待をして下さるとのこと。昼席には、近隣法中住職が参列されて、正信偈をお称え致します。楽しみにお参り下さい。

 親鸞聖人の三十三回忌以降、毎年欠かさず、こうして受け継がれてきた報恩講、今年もご縁にあわせて頂きましょう。

護持会役員(帳場接待係)
護持会報恩講(開式前の様子)
10月                                     

 九月に入ってからも厳しい猛暑が続き、寝苦しい夜が続きました。寝苦しさの原因は、暑さのせいだけではなく、カープの不甲斐なさにもあるのでしょう。一時期は、日本シリーズまで考えてしまい、カープ・ドラゴンフライズ(バスケ)・サンフレッチェ(サッカー)三団体同時に優勝パレードのことまで、夢に描いておりました。来年こそ、正夢になりますよう、今から祈っておきます。

 さて、先日(九月四日)、東広島組(東広島の浄土真宗寺院連盟)の寺族研修会が、カープの本拠地、マツダスタジアムにて開催されました。

 野球場で本当に研修されたの?と思われるでしょうが、選手を支える裏方の大切さを学び、マツダスタジアムのベンチに座って、選手と同じ目線を体験し、選手ロッカールームにまで入らせて貰いました。たくさんの法話ネタを仕入れて参りましたよ。読経後の法話で退屈そうにされていましたら、カープネタを入れた法話を、一発かましますね。

 屋内練習場も見学させてもらい、実際に塁間を走ってみました。1塁ベースと2塁ベースの遠いこと。こんな距離を、あっという間に盗塁するとは、さすがプロ野球選手。

 今回の寺族研修会を通じて、私たちは、僧侶のプロフェッショナルとして、さすがプロ僧侶と思って貰えるよう、僧侶道を邁進しなくてはと、改めて思いました。

新井監督のパネル下にて撮影(マツダスタジアム内)
スライリーと撮影(3塁側ベンチ前)
9月                                     

 例年の猛暑以上の、今年は酷暑なる日が続きます。加えて、時々降る豪雨は、夕立のような情緒ある雨とは違って、命の危険を伴います。昔の夕立は、日中の暑さを冷まし、夜は心地よい風をふかせたものです。今は、夜中でも熱風を感じます。この猛暑、盆を過ぎてもおさまりません。いつまで続くのやら。

 私が住職を継職した三十年前、本堂内は天井が高いせいか、風が通って涼しかったものです。本堂で法要を勤めておりますと、参拝されていた年配の方が、「肌寒いから天井の扇風機を止めて下さい」と言われるくらいでした。本堂内は心地よい風が通り、昼寝をするには、最適な場所だったんですよ。

 先日の盂蘭盆会納骨法要、無事に勤め終えましたが、この暑さ故か、いつも以上に疲れたように感じます。年齢のせいもあるのでしょうが、実はもう一つ問題が発生。なんと、本堂外廊下の天井部分に、蜂の巣がありました。しかも、どう猛なスズメバチの巣。帳場の世話人さんが気付いて下さいました。このまま、蜂の巣を放置していたら、巣は大きくなり、スズメバチの数も増えてくるとのこと。よく見れば、数匹のスズメバチが巣の周りを飛び回っていました。参拝された方が、スズメバチに刺されはしないか、そればかりが心配で、余計に疲れたと云う訳です。

 夕方、参拝者が帰られた後、世話人さんが、長い竹棒で、見事に蜂の巣を撤去して下さいました。お盆の期間、善教寺へお参りされた方が、スズメバチに刺される被害に遭われることなく、安堵しております。

蜂の巣があった本堂外廊下の天井(赤丸印の場所)
8月                                     

 先月の住職レターにて、「キジル千仏洞のハイライトは、日本の雅楽のルーツともいわれている楽器が描かれた、第三十八窟です」とお伝えし、その続きと後日談です。

 キジル千仏洞は、後漢から宋代にかけて開窟されたもので、現在は二百三十余の石窟が確認され、仏殿と僧房で構成。そのうち第三十八窟は『楽舞洞』の名で知られ、伎楽天のもつ楽器は、横笛、琵琶、ひちりきなど、日本の雅楽のルーツといわれています。琵琶はペルシア・アラビアを起源に、インド・西域・中国を経て、奈良時代に日本に伝来。シルクロードは様々な物資の交易だけでなく、宗教や文化、音楽までも伝わって来たわけです。

第三十八窟『楽舞洞』


 当時私は雅楽を密かなマイブームにしていました。寺の本堂で法要の前には、雅楽をながしていました。帰国後、広島で行われる、東儀秀樹さんのコンサートに行きますと、当時の旅行記に書いていた程です。

 旅の終盤、大きなサプライズに遭遇。五月十六日、ウルムチから西安への飛行機で、なんと雅楽奏者の東儀秀樹さん、ご本人にお会いしました。NHKの撮影でウルムチへ滞在されていたとのこと。西安では、日本からのコンサートツアーがあると言われていました。

 あれから二十四年経った今でも、東儀秀樹さんと飛行機でお会いしたことは、シルクルードで見た蜃気楼のごとく、夢だったのかなとも思える、不思議な『縁』でした。
 当時を懐かしみ、寺報裏面にて、シルクロード仏教遺跡探訪記(全三十七日間)を記していきます。

東儀秀樹さん(2000年5月16日
新連載
7月                                     

 上記の『高名なお坊さん』シリーズで、鳩摩羅什を取り上げますと、二十四年前(西暦二〇〇〇年)四月十四日から五月十九日に旅した、シルクロード仏教遺跡探訪が、走馬灯のように思い返されました。西遊記で有名な唐代の学問僧玄奘三蔵が、当時辿った跡を、バスか鉄道で行く、ほぼ無計画な旅。若いから出来たのでしょう。ノートパソコンを持参し、各地からインターネットにアクセス。当時はネットカフェのある時代ではなく、ホテルの部屋にある電話回線でネットにアクセスし、善教寺ホームページへ、探訪記の書き込みと現地の写真をアップしながらの旅でした。今考えても、よくぞ生きて帰って来られたものだと思います。

 広島空港から西安(唐の都長安)に入り、仏教伝来の地である西域のクチャ(唐の時代の亀茲国)に到着したのが、五月十日。当時に書いた探訪記を読み返すと、この頃の体調は最悪だったと書かれていました。ウイグル自治区に入り、香辛料の強い食事と、砂漠特有の気候が体力を奪ったのでしょう。そんな中、鳩摩羅什が生まれた地にある、キジル千仏洞に行き、ここに建つ鳩摩羅什像の前で、体調最悪の中、讃仏偈を称えたことが思い返されました。

 このキジル千仏洞のハイライトは、日本の雅楽のルーツともいわれている楽器が描かれた、第三十八窟です。この話は、後日談を含めて、来月の寺報に続けますね。

 シルクロード仏教遺跡探訪の旅、私の坊主道、原点になりました。

キジル千仏洞の鳩摩羅什像(私が撮影)
キジル千仏洞をバックに現地で交流した人(左が私)
6月                                     

 先日の五月十八日(土曜日)、午前中は初参式(善教寺仏教婦人会主催行事)を開催し、午後からダーナ奉仕布教(東広島組主催法要行事)を勤めました。

 「初参式」とは、お子さまの誕生後、初めて仏さまの前で手を合わせ、お祝いすること。生まれたばかりのお子さまも、みるみるうちに体も心も成長していきます。その最初の時に、お子さまと共に親御さまも仏さまに手を合わせ、生まれたことの意味を確かめて頂く。親として生きる出発点であり、赤ちゃんによって与えられた尊い仏縁であります。

 当日は、一歳の赤ちゃんがお参り下さいました。この初参式、記憶としては覚えていないでしょうが、大人になって、寺の本堂へお参りした時、「なんとなく懐かしい気がするな~」という思いを抱いて頂けるかな???

 昼からのダーナ奉仕布教は、善教寺の定例法要では無く、東広島組内で開催寺院の当番が廻ってきた時に法要を勤めます。ダーナとは、古いインドの言葉で「慈しみをもって、広く他に施すこと」。梵語ダーナを漢字では「檀那(だんな)」と訳し、「布施」の意味があります。お陰様で、天気が良かったせいか、多くのご参拝を頂き、有り難い事に、多額の布施がありました。このご浄財、全てを東広島組への寄付とさせて貰いました。

 今の時期、田植え等で多忙だったことでしょうが、お参り下さいまして、有り難うございました。

ダーナ奉仕布教
初参式
5月                                                           

 私が三十年前に住職を継いだ時、一番参考にさせて貰った法話は、奈良の薬師寺管主(住職)、高田好胤師(平成十年還浄)です。あの語り口調、人を惹きつける話術、面白い話ネタの数々、未だに足元にも及びませんが、少しでも近付けるようにと、録音された法話を、何度となく聞き返しました。そしていつの日か、奈良の薬師寺へ、高田好胤師の残り香を頂くかの如く、お参りさせて貰いたい、そのように思い続けてきましたが、ようやく念願が叶いました。

 この度、高田好胤師に師事され、現在、薬師寺執事長の大谷徹奘師にご案内いただき、薬師寺を参拝してきました。

 本坊寺務所でお抹茶接待、金堂にて大谷徹奘執事長による読経、そして有り難い説法。金堂に響き渡る説法を聴きながら、高田好胤師も、心が洗われるような、ぬくもりのある有り難い説法をされたんだろうと感じ入りました。

 国宝の東塔を背景に、一緒に参拝した仲間と写真を撮りました。この東塔は、奈良時代(西暦七三〇年)に創建され、平城京に残る最古の建物です。阪神淡路大震災でも全く損壊せず、今年の元旦に発生した能登半島地震では、塔の先端部が左右に一メートルくらい揺れるも、損壊なしだったとのこと。

 大講堂に移動し、その講堂の大きさと、大講堂を支える数本の直径一メートルくらいの柱に驚きました。この柱、なんと樹齢二千五百年の木を使われたとのこと。お釈迦様が誕生された頃の木であります。柱を触って、悠久の時を感じてきました。

 薬師寺参拝し、大谷徹奘師の説法を聴聞したことで、少し、心が清くなったでしょうか。否、直ぐには、心は変わらないことに気付きました。これから、心を耕し続けていきます。

中央の僧侶が大谷徹奘執事長 左から二人目が私
4月 

 三月一日(金曜日)と二日(土曜日)の二日間、善教寺仏教婦人会報恩講並びに仏婦会員還浄者の追悼法要を勤め、仏教婦人会の総会も無事に終えることが出来ました。

 何より嬉しかったのは、報恩講式のお斎(精進料理)を振舞えたこと。コロナ禍では、お斎(精進料理)が出せず、法要時間も短縮して勤めてきました。

 四年ぶりの、報恩講式のお斎(精進料理)が復活。寒い時期ゆえに、コロナ、インフルエンザはまだまだ予断を許さない状況が続き、お斎(精進料理)は時期尚早なのでは?との意見もありました。そんな中、仏婦会長さんをはじめ、仏婦役員の皆さまが一致団結して、「報恩講式のお斎(精進料理)を復活させよう!」との声が上がった訳です。

 仏婦役員さんが、手分けしてお野菜を持ち寄って下さり、必要な調味料は購入し、前日から仕込みに入られ、当日も早朝より、お斎(精進料理)を作って下さいました。

 最初は、器を洗う手間を省くため、お弁当形式にしてはと思いましたが、それでは厳かな感じにならず、持て成し感も出ないので、一品ずつ、器で出して頂くことになりました。

 仏婦役員の皆さまは、さぞかし、お疲れになられたことでしょう。

 とっても美味しい、お斎(精進料理)、有り難うございました。

宮川喜久子さんによる仏婦綱領唱和
仏教婦人会総会
3月

 毎年二月十一日(祝日)、善教寺門信徒世話人代表による総会(懇親会)を開催してきました。いつ頃から開催してきたか定かではありませんが、江戸時代後期頃から、近隣の門信徒総代を寺に招いて懇親の酒宴を開催してきたと、祖母から聞いたことがあります。私が住職を継職した時は、善教寺世話係会という名称でした。現在は、善教寺護持会となっています。

 コロナ禍になって過去3年、善教寺護持会総会(懇親会)は開催できませんでした。対面での開催が出来ない間は、書面決議による総会を開催。この度、ようやく、以前と同じように護持会総会を開催することが出来ました。

 参加者の皆さまを見て、まず思ったのが、世代交代していること。三十年前の世話係会では、二世代離れた祖父世代の方々ばかり。コロナ前は、父親世代の方々が多く、ようやくこの度、世代が近くなり、なかには私よりも若い方が参加して下さいました。

 護持会総会終了後、本堂廊下の階段にて記念撮影をして、その後、庫裏に移り、酒宴を開催。

 コロナ禍で、人と会わない、人と距離をとる、会食時もアクリル板を設置して黙食、こんな感じが長かったせいか、人の温かさ、心のぬくもりを余計に感じました。

護持会会長の石原総代による開会挨拶
本堂廊下にて集合写真
2月

 善教寺法要案内パンフレット(令和六年版)、ようやく完成しました。このパンフレット作製、私にとっては、良き区切りのような思いであります。「よし、また今年も、頑張ろう!」みたいな。

 パンフレットの表紙タイトル、ここ数年、『苦』のシリーズでした。令和二年版『愛別離苦』、令和三年版『怨憎会苦』、令和四年版『求不得苦』、令和五年版『五陰盛苦』。

 約二千五百年前、お釈迦様が三十五歳で仏のさとりを開かれた、その第一声は「人生は苦なり」でした。人生の苦しみを「四苦」、生苦・老苦・病苦・死苦、それに前述の四つの「苦」を加えて「四苦八苦」と説かれています。そろそろ、『苦』から解放されても良い頃かな?と。

 令和六年版から七高僧シリーズとなりました。先ず、第一祖の龍樹菩薩。西暦百五十年~二百五十年頃の、インドの高僧。親鸞聖人は龍樹菩薩を七高僧の一番最初にあげて尊敬され、仏教では、お釈迦さまに次いで二番目に偉大な方です。

 表紙の写真は、善教寺本堂に掛かる、七高僧の掛軸。一六九一年(元禄四年)、本願寺より拝受しました。一九九八年(平成十年)に、表装を修復。お軸の各所に、折り目のような跡が残り、文字は薄くなっています。それだけ年代物だという証でしょう。

 『七高僧シリーズ』と題して、これから七年かけて、善教寺法要案内パンフレットの表紙タイトルとしていきますので、今後を楽しみにしておいて下さいね。

善教寺パンフレット表紙写真
1月

 善教寺の報恩講は、十二月二日(土曜日)、無事に勤め終えました。コロナ禍になってから、法要時間を短縮し、お斎(報恩講式精進料理)は取り止めてきましたが、ようやく、今年から、従来の形式に戻しました。ただ一点だけ、お斎(報恩講式精進料理)を、発展的に変更した形式で提供。きっと、参拝された皆さまの中には、お斎を頂きながら、違和感を覚えられたかもしれません。ご寛容ください。

 今までは、お膳に汁椀、小鉢を並べ、煮しめ、白和え、お汁、ご飯に白菜の漬物でした。今回から、皆さんが大好きな、カレーライスに変更。お寺で、カレー???と、怪訝に思われたかもしれません。なぜ、カレーライスにしたのかを説明しますと長くなりますので、時代に応じて変化させたと、一言だけ申し上げておきます。

 今回のカレーライス、『報恩講カレー』と命名させて貰いましたが、お接待係の世話人さんが、前日から精進で出汁をとり、全くお肉を使わずに作って下さいました。いろいろ考え、かなり手の凝った、『報恩講カレー』であった訳です。

 法要講師の住職さん、そして、出勤された近隣の法中住職さんにも、『報恩講カレー』を食べて頂きました。おかげさまで、皆さんから大好評でありました。

 来年の善教寺報恩講にお参りされ、『報恩講カレー』を、ぜひとも味わってみて下さいね。

法中住職出勤
報恩講参拝の皆さま
庫裏で報恩講カレーを食べました