住職レター 2021

 12月

 毎年、善教寺報恩講の前に、勝如上人御手植松を剪定してもらいます。善教寺の大切な年中行事であり、この剪定作業を見ると、報恩講の季節だなと感じます。
 この御手植え松は、昭和三十二年五月三十日、勝如上人(大谷光照本願寺第二十三代門主)が善教寺へご巡教に来られた時、植樹されました。おそらく、ご巡教のハイライトだったのでしょう。
 祖母が生前中、この勝如上人御手植松の前を通るたびに、当時のご門主がご巡教に来られた時を述懐しておりました。それだけ、祖母の心に刻まれた、尊い思い出だったのでしょう。
 当時を知る年配の方も、時折、この勝如上人御手植松を懐かしんで下さいます。しかし、今から約六十四年も前のこと。さすがに、覚えておられる方は少なくなりました。
 有り難い事に、今でもこうして立派に、御手植え松が、ご参拝者をお迎えして下さいます。

勝如上人御手植松
現在のお手植え松
 11月

 コロナ禍の収束が見えてきたのか、新規感染者数が減ってきました。第六波、くるでしょうか。もうひと踏ん張り、辛抱する時でしょうか。しかし、今まで不要不急の外出を控え、身内の葬式であっても、県外だからという理由で、参列を自粛してきました。友人と飲み会にも行きたいでしょうし、家族で外食もしたいところだと思います。
 このまま収束してくれることを、ただただ祈るばかり。
 ここ最近、気になる言葉があります。「人流の抑制・・・」、私たち人の動き流れを、人流というのだとか。どうも違和感があります。人をモノ扱いしているというネガティブな思いからか、「ジンリュウ」という音読みにも、違和感ありあり・・・。
 コロナ禍においての感染防止策は、人と会わないこと、人とは距離をとることでした。当然、握手や肩に手を添えたりはご法度。
 コロナ収束後の世界は、今まで以上に、人と人の心温まる交流が出来るでしょうか?
 さてこの住職レターを書いた本日、護持会報恩講を勤めました。コロナ前の参拝者数には未だ戻りませんが、参拝者同士の交流を見ておりましたら心が温まり、なんだか微笑ましかったです。

護持会報恩講の参拝者
帳場世話人の皆様
 10月

 コロナ禍で、世の中には変化が起きています。お寺を取り巻く状況にも、大きな変化が起きました。法事は少人数化で、本堂で勤まるとこが多くなり、葬式は家族(親族)で見送る葬送スタイルが当たり前になってきました。
 しかし、変わらない事もあります。それは、各ご門徒宅へ参勤する報恩講。この報恩講は、多くの場合、善教寺から『報恩講参勤のお知らせ』と題して、ハガキに日時を明記して郵送します。コロナ禍になってからは、「マスク着用して・・・」と、ハガキに明記するように変わったくらいでしょうか。
 コロナ禍を理由に、「今年の報恩講参勤は取り止めて下さい」との、お電話があるかな?と心配したのですが、有り難いことに、取り止めされる方は全く有りませんでした。むしろ逆に、「コロナじゃけ~、お参りして貰えんかと思っていましたが安心しました。気を付けてお参り下さい」と、お優しい言葉を頂く事もあります。
 各ご門徒宅への報恩講参りは、浄土真宗独特の風習です。他宗派では、お盆の檀家参りが一般的でしょうか。報恩講は真宗門徒にとって、一番大切な法要であります。
 コロナ禍によって、変化していくべきところと、絶対に変えてはならないところ、ちゃんと見極めていかなくてはと思っています。
 報恩講参りの習慣、次世代に受け継いでいきましょうね。

ライトアップされた親鸞聖人像(善教寺境内地)
 9月

 ここにきて、新型コロナウィルスが猛威を奮っております。ワクチン接種が進み、夏以降、収束していくのかと思っていましたが、今回の第五波は、怖いくらい感染が拡大しています。ワクチン未接種の若年世代を中心に、急速に広まっているとのこと。
 新型コロナウィルスが蔓延して、一年半が経つでしょうか。お寺を取り巻く環境は大きく変化しました。世間の状況と同様に、善教寺においても感染拡大防止のため、種々対策を講じながら、法要寺務を進めております。
 感染拡大は、人と人の接触が原因とされておりますゆえ、法要・行事を執り行う際には、参拝者同士のソーシャルディスタンスは当然ながら、寒い時でも定期的な換気を行い、法要料理(お斎)は取り止め、手指アルコール消毒のうえ、ご参拝を頂いているのが現状であります。
 葬式は、少人数のみ参列する近親者葬となりました。法事は、善教寺本堂で勤まることが多くなりました。
 コロナ禍との因果関係は分かりませんが、今年に入り、『墓終い(はかじまい)』され、善教寺永代合葬墓へ納骨される方が増えてきたように思います。
 皆さん仰られるのは、なんとか今日まで田舎の墓を守ってきた。しかし、コロナ禍で移動が制限される昨今では、今までと同様に田舎の墓にはお参り出来ない。元気な内に、『墓終い(はかじまい)』して、子ども達の世代に、なるべく迷惑・負担を掛けたくない。
 今後のお墓について、コロナ禍における先祖の法事について、各種法要行事に関する事、いつでも遠慮なく、ご相談にお越し下さい。

善教寺永代合葬墓
 8月

 コロナ禍の中、オリンピックが始まりました。夜更かし禁物の私ですが、開会式は最後まで見入ってしまいました。未来ある青少年が多く出演し華を添え、コロナの最前線で活躍された方々を称え、派手さはなかったですが、落ち着いた演出に好感の持てる開会式だったと思います。古き野球好きの世代には、王・長嶋の聖火リレーに、目頭熱くされたことでしょう。
 私が感じたキーワードは、多様性でありました。多様性(ダイバーシティ)は、今ではどこの組織でも標榜され、多様性を受け入れ、多様性を認めましょう、と連呼れます。
 このコロナ禍において、益々多様性は必要不可欠な要素となりました。
 宗教において、この多様性は、どう捉えるか? 多様性をどのように受け入れてきたのか? ここ最近、よく考えています。
 奈良時代に仏教が伝来し、お釈迦様の教えが、大きな山の頂上であると捉えるなら、各仏教系各宗派の登山道は別々。「我が登山道のみが正しく、別の登山道から頂上へ登るのは危険だよ!」と言ってきてはいかなかったか。また、同じ浄土真宗門徒であっても、『こちらは○○寺の門徒』『あちらは○○寺の門徒』として、接し方に温度差を生じさせていなかったか。
 金子みすゞの代表作『私と小鳥と鈴と』の一節にある、「みんなちがって、みんないい」を思い出しました。

 7月

 ご法事に参勤して、ご年配の方から、「ワクチンを打ちま したよ」、「ワクチンの予約が取れましたよ」と、笑顔で話して下さることが増えました。ワクチン接種が進むと、コロナの終息が見えてくるでしょう。
 新型コロナウイルス感染拡大防止は、人と会わない事、 人と距離を取ること、当然、マスク着用の上です。そして人流の抑制。
 外出の自粛要請されたことから、在宅勤務(テレワーク)の導入 が進み、会議はオンラインが主流となり、オンラインで飲み会も行わ れるのだとか。
 オンラインは味気ない、オンラインでは心が伝わらない、オンラインのコミュニケーションは難しい、そのように言われますが、慣れ ば全く問題ありません。
 つい先日、ご門徒宅の四十九日法要に参勤した際、カナダ在住の娘さんがオンラインでお勤め下さいました。コロナ禍ゆえ、日本への帰 国は叶わず、でも先祖の法事には参勤したい。その思いが、オンラインにて成就しました。最近のオンラインはネット環境が良いせいか、 日本とカナダのコミュニケーションも全く違和感なし。お経も法話もカナダまで届きました。 その場に居合わせなくても、心と心の触れ合いが、十分に出来た、そんな法事でした。
 善教寺からオンライン法事、いつでも可能ですよ。写真のようにスタンバイ完了しました。
 法事は勤めたいけど、集まるのは不安、時間的に難しい、息子と娘が遠隔地、そんな問題は、このオンライン法事で解決です。ご依頼、お待ち申しあげます。

 6月

 今年の梅雨は例年より早く入りました。週間天気予報では連日、雨もしくは傘マークが続きます。この雨で、新型コロナウイルスが流れ去ってくれたら良いのですが。
 お寺の周りでは、田植えが終わったようです。コロナ禍で緊急事態宣言下となっていますが、日常の風景はいつもと全く変わりありません。
 日常の風景とは異なり、お寺を取り巻く環境は大きく変化しました。定例法要が、昼のお斎(法要料理)を挿み朝席と昼席を勤めていたのが、お斎の接待なしとなり朝席だけのお勤めに。
 各門信徒宅で勤めていた法事は、善教寺の本堂で勤まることが多くなりました。
 一番の変化は、葬送の儀であります。ここ数年、家族葬の流れではありましたが、それに拍車を掛けて、ごく少数の身内のみが会葬される、お身内葬へ。
 儀式の内容も短縮化の傾向です。コロナのせいで、人と会う時間を短く、人と会う回数を少なく、という訳でしょうか。葬儀式の中で初七日法要の読経は普通の事となりました。その内、通夜と葬式、一緒に勤めて欲しいという依頼にいきつきはしないかと危惧しています。
 都会の方では、宗教儀式を勤めない葬儀が増えているとのこと。そして何と最近では、0(ゼロ)葬が流行りつつあるのだとか。0(ゼロ)葬とは、文字通り、全て0(ゼロ)だそうです。お経が0(ゼロ)、そして悲しいことに、お骨も0(ゼロ)という事で、葬儀会社がお骨も引き取ってくれるとのこと。
 コロナ禍のこの一年で、大切な事が失われていきました。

本堂から山門向こうの田植え風景を望む(令和3年5月23日撮影)
 5月

 風が春から初夏の香りを運んでくるのを感じる季節です。心地よく、気分も良くなります。寺の周辺では、田植えの準備が始まりました。草刈りされたり、田んぼに水を張ったり、慌ただしさの中にも、のんびりとした、風情あるいつもの様子です。コロナ禍を忘れさせてくれる日常があります。
 先月の話題、オンライン法事の件ですが、準備段階として、デバイス(情報端末・周辺機器)を揃えました。ノートパソコン、ウェブカメラ、お経を届けるためのマイク、いつもながら、先ずは、取り揃えるところからのスタート。インターネット接続は、ちょっとハードルが高くなりますので、近々、余裕のある時に取り組むとしましょう。オンライン法事に関しては、また追って、報告をしますね。
 さてこの度、本堂入り口の階段に、手すりを設置しました。もっと早くに設置をしておくべきでしたが、遅くなりました事をお詫び致します。
 本堂階段場所で集合写真を撮るためには、手すりがあると違和感あるな~。アルミ製の手すりではなく、本堂に馴染む木工製の手すりが良いな~と。実は屋外用の木工製の手すりが無かったものですから、設置工事に躊躇しておりました。
 木工製の手すりは見た目よし触ってよし、靴を脱ぎ履きする用として平らな部分もあり。機能的で雰囲気の良い手すりを設置しました。
 足元が不自由な方も、安心してご参拝くださいね。

本堂手すり写真
 4月

 春のお彼岸が参りました。日が長くなり、寒さが緩み、桜の便りが聞こえてきまして、本来なら心ウキウキ感でありましょうが、コロナ禍の収束が見通せず、気持ちも晴れ晴れという感じはしません。この状況ですと、来年のお花見も、桜を愛でながら大酒を飲んでの宴会は難しいかもしれませんね。
 さて先月の善教寺寺報(住職レター)にて、「法事がオンライン化していくかも?」と綴りました。
 実際、もう何度か、オンライン法事を勤めました。法事で参勤いたしますと開口一番、「住職さん、娘が〇〇から帰ってこられなかったので、スマホ経由でお経を届けてやってもいいですか?」と。中には、本格的に、ウェブカメラとノートパソコンを準備されていた門徒宅もありました。
 コロナ禍ゆえに、広島の実家へ帰ってくることが出来なかったのでしょう。
 お経が終わった後、遠隔地にいらっしゃる方と、ウェブカメラとマイクを通して直接お話しをしたこともあるのですが、お経は途切れずに、私の声がちゃんと遠方にも届いたとのこと。しかも、私の法話の表情まで、動きがあって、スムーズに配信されたそうです。
 先祖の法事を勤めない多くの理由が、家にいない息子・娘が帰ってこられないから。でもその子供さんたちも、先祖の法事が出来ない負い目は感じていらっしゃるとのこと。これらの問題を、オンライン法事が解決してくれるかな?
 善教寺オンライン法事配信スタジオ、近々作るとしましょう。

本堂北(山側)から撮影
 3月

 私が住職に就任した平成七年当時、世の中はインターネットが一般家庭に普及し始めた頃でした。ネット上にホームページを開設している会社は少なく、ましてや地方の寺院がホームページで情報発信するなんて、まだ少なかった時。こんな頃から、善教寺ホームページを開設して、情報発信してきました。 ゆえに、http://otera.or.jp という、田舎の寺院とは思えないようなドメイン(ホームページアドレス)を持つことが出来たのでしょう。
 当初は、ホームページをバーチャルZENKYO-JIとして仮想空間に寺院を構築し、リアル(現実)善教寺と、二本立てのような歩みをしていた時もありました。
 バーチャルZENKYO-JIは、ブログが流行る前だったせいもあり、日々かなりの掲示板への書き込みがあり、それなりに、仮想空間で上手く運営が出来ておりました。しかし意外とバーチャルZENKYO-JIでの作業量が多くなり、リアル善教寺の運営に支障が出始め、あえなくバーチャルZENKYO-JIは閉鎖へ。
 閉鎖から約二十年、仮想空間(バーチャル)のイメージとは違いますが、法事がオンライン化していくかもしれません。生活様式の多様化に伴い、今後は一つの場所に集合しての法事は難しくなっていくでしょう。この話、次号に続きます。

 2月

 「一年の計は元旦にあり」、物事を成し遂げるためには、最初に計画を立ててから始めるべきであるという戒めでありますが、皆さまは、どのような新年をお迎えになりましたか?
 このコロナ禍ゆえ、今年は正月気分では無かった、子供も孫も来なかった、正月は家から出なかった、人と全く会わなかった、正月後に月忌参りした際、このようなお言葉を聞きました。コロナを収束させる一番適切な事は、人と会わない、人と接触しない、とは言え、こうして大切な親族とも距離を取らないといけないのは、寂しいことです。
 私の正月は、近年にない素晴らしい初日の出を拝むことが出来ました。本堂で元旦会法要を勤め終え、本堂廊下に出た時、東の山からお日様が顔を覗かせた、正にベストタイミング。思わず、スマホで写真を撮りました。気温はマイナス五度くらいの寒い朝だったと思います。境内には、大晦日から降った雪が薄っすらと積り、冷気を含んだ空気がピリッと張りつめ、冷え切った大気を一瞬にして温かく癒してくれるような、眩い太陽の光。
 この初日の出を、本堂の廊下で、身体いっぱいに浴びて、今年一年がより一層、良い年になる予感に包まれ、今年のスタートを切ることが出来ました。

令和3年元旦に撮影した初日の出
 1月

 毎年、作成しております善教寺法要案内パンフレット、令和三年版のタイトルは「怨憎会苦」。怨み憎む者に会う苦しみを表す言葉です。
 今年は「愛別離苦」、再来年の令和四年は「求不得苦(ぐふとっく)」、そして令和五年の「五陰盛苦(ごおんじょうく)」へと続く予定です。お楽しみに。と言っても、「苦」を伝え続けられるのは、読むのも「苦」ですよね。申し訳ありません。
 約二千五百年前、お釈迦様が三十五歳で仏のさとりを開かれた、その第一声は「人生は苦なり」でした。
 人生の苦しみを四つに大別したものを「四苦」、生苦・老苦・病苦・死苦、それに前述の四つの「苦」を加えて「四苦八苦」と教えられています。
 いずれの世、いずこの里でも受けねばならぬ人間の苦しみを、八つにまとめられたもので、お釈迦様自身も、王様の子として生を受け、文武の才能に恵まれながら、それでも無くならぬ苦に嘆かれました。
 善教寺法要案内パンフレット、今までと大きく変わった点があります。気付かれましたか?
 私の「ごあいさつ」の写真、リニューアルしました。約十年前の写真を使い続けており、「さすがに若い写真は罪じゃろう!」と反省しております。若さに執着するのも、一つの苦かな。いやこれは、煩悩でしょうね。除夜の鐘を撞いて、いらぬ煩悩の垢を落とし、新年を迎えるとしましょう。
 今年も、お世話になりまして、有り難うございました。