今年のことば

2023年(令和5年)

「五陰盛苦」 ごおんじょうく

 

「五陰盛苦」は、人間の体や心を形成する五つの要素から生じる苦痛や苦悩のこと。
五陰とは肉体(心身)のことで、世界は五つの集まり(色・受・想・行・識)で成り立っていると考えられている。
「色」とは物質的存在という意味。
「受・想・行・識」は心の世界を意味。
「受」は、印象・感覚あるいは単純な感情。
「想」は、心に浮かべる像のこと。
「行」は、意志または衝動的欲求の心。
「識」は、心の作用を総合した、認識・識別または意識活動。
即ち、「五陰盛苦」とは、生きる苦しみ、生命活動を行う上で受ける必然の苦しみ、怪我をするなどの肉体的な苦しみ、悲しみ・怒り・憎悪といった心の苦しみのこと。

※『今年のことば』とは、善教寺法要日程案内パンフレットの表紙に掲載した、ことばのこと。


2022年(令和4年)

「求不得苦」 ぐふとっく

 

「求不得苦」は、求めても得られない苦しみを表す言葉です。
目標を達成してもまた次の目標が必要になる。欲しいものを手に入れても次が欲しくなる。このもっともっとと求めて止まない苦しみを、餓鬼の苦しみといいます。
欲しいものがあれば、それを手に入れることに躍起になり、無理を通し、他を押しのけ、自分の思うようにならなければ、腹を立て、ねたみ、心が静まることがありません。
自分の思うようになる、自分の願望が満たされることが幸せだと思っているとすれば、それは例え一時的に実現したとしても、必ず崩れさってしまうのが常であります。
求不得苦から逃れるには、足るを知ることが大切です。
どうしたら良いか、それは身近な人や、全ての事象を当たり前と思わず、感謝することです。

※『今年のことば』とは、善教寺法要日程案内パンフレットの表紙に掲載した、ことばのこと。


2021年(令和3年)

「怨憎会苦」 おんぞうえく

 

「怨憎会苦」は、怨み憎む者に会う苦しみを表す言葉です。
他人を憎み、嫌いだという相手への思いは、必ず相手にも反映して、自分のことを憎み、嫌います。
憎しみあいながら同じ屋根の下で暮らす、地域や学校、職場で、うまくいかない人間関係があって、お互いに気まずい思いをしながら、それでも共に生きていかねばならないのは、とても辛いことです。
顔も見たくない、まして言葉を交わすことも苦痛であり、怨み、憎しみの気持ちが増すばかり。そういう事情のもとで日暮らしをしなければならないとなると、日々が苦しみの連続です。
最愛の家族が、いがみあい、憎しみあうようになると、家族の不和や家庭に亀裂が生じてしまいます。大切な人や愛した人が憎しみの人に変わることも、尊敬していた人に裏切られることもあります。
今、辛く苦しい思いをしていることは、人への優しい気持ち、慈悲の心が育まれていく修行をさせて頂いていると思えたら良いのでしょうが、難しい事です。
怨みと憎しみは、自分が変われるチャンスです。

※『今年のことば』とは、善教寺法要日程案内パンフレットの表紙に掲載した、ことばのこと。


2020年(令和2年)

「愛別離苦」 あいべつりく

 

「愛別離苦」は「愛する人やものと離別する苦しみと辛さ」を表す言葉です。
愛する人とは、個人にとって親愛なる人や心から特別な思いを抱く存在を示し、生活を共にする妻や夫、子供、親、兄弟などの家族、また恋人などのことを指します。
つまり「愛別離苦」は、この世に生まれた者なら、いつかは通らなければならない「生別や死別での苦しみ」を意味する言葉となります。
どれだけ医学が発達しても、救うことのできない命もあるでしょう。無力でやりきれない「離別での苦しみ」が「愛別離苦」なのです。
「愛別離苦」の痛みは計り知れず、おそらく精神的な観点から見れば、最も心がやせ細ってしまう「苦しみ」であるのかもしれません。
しかし、「愛別離苦」が生きる者すべてが背負う自然の道理であるならば、今生きているという瞬間に感謝し、今を生きることを大切に出来るのではないでしょうか?

※『今年のことば』とは、善教寺法要日程案内パンフレットの表紙に掲載した、ことばのこと。


2019年(令和元年)

「諸行無常」 しょぎょうむじょう

 

「諸行無常」は仏教の命題である。

「諸法無我」「涅槃寂静」と共に、仏教教理の基本的特徴を示す三法印の一つ。

とくに原始仏教経典に記されている。諸行の「行」とは「つくられたもの」の意であるから、全体で「一切のつくられたものは時間の推移によって生滅変化し、常なることはない」という意味になる。

この世界と私たちのありのままの姿を「諸行無常」という言葉で表し、この世界のすべての物事は一瞬もとどまることなく移り変わっている。したがって、固定した変化しない私というものは存在しない。

しかし、私たちはこのありのままの真実に気づかず、自分というものを固定した実体と考え、欲望の赴くままに自分にとって得か損か、好きか嫌いかなど、常に自己中心の心で物事を捉えている。

その結果、自分の思い通りにならないことで悩み苦む。争いを起こし、苦悩の人生から一歩たりとも自由になれない。

このように真実に背いた自己中心性を、仏教では無明煩悩という。

この煩悩が、私たちを迷いの世界に繋ぎ止める原因である。

※『今年のことば』とは、善教寺法要日程案内パンフレットの表紙に掲載した、ことばのこと。


2018年(平成30年)

「南無阿弥陀仏」

 

善教寺墓苑の永代合葬墓 親鸞聖人御真筆を模った南無阿弥陀仏の名号

※『今年のことば』とは、善教寺法要日程案内パンフレットの表紙に掲載した、ことばのこと。


2017年(平成29年)

「浄 縁」 じょうえん

『お浄土と縁を結ぶ』をコンセプトに、美しい庭園をイメージした墓苑を開山いたします。

・永代合葬墓エリア
・和スタイル墓エリア
・洋スタイル墓エリア
・プレート墓エリア
・ペット専用墓エリア

慈雲山(善教寺の山号)を背景に、5つのエリアからなる、テーマパーク墓苑の誕生。

善教寺墓苑

善教寺シンボルマーク

※『今年のことば』とは、善教寺法要日程案内パンフレットの表紙に掲載した、ことばのこと。


2016年(平成28年)

「白骨の章」  はっこつのしょう

 それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。さればいまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすえの露よりもしげしといえり。

されば朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉じ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔(こうがん)むなしく変じて桃李のよそほいを失ひぬるときは六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半(よわ)の煙(けむり)となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。

されば人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


2015年(平成27年)

悪人正機   あくにんしょうき

「悪人正機」とは、「悪人こそが阿弥陀如来の救いの本当のめあてである」という意味で、阿弥陀如来の慈悲のこころを表す言葉です。

阿弥陀如来は、平等の慈悲心から、すべての生きとし生けるものに同じさとりを開かせたいという願いを発されました。だからこそ、この慈悲のこころは、今現に迷いの中で苦しんでいるものに注がれるのです。

ですから、「悪人正機」という言葉を聞いて、悪事を犯してもかまわないと開き直ったり、悪いことをしたほうが救われると考えるのは、誤った受けとめかたです。

経典には、この阿弥陀如来の慈悲が、『病に苦しんでいる子に特に注がれる親の愛情』に例えて説かれています。親鸞聖人は、このような阿弥陀如来の慈悲に出会い、その慈悲が注がれているのは、他でもない煩悩に満ちあふれた自分自身であると受けとめられました。

私たちは毎日いろいろな生き物のいのちを奪いながら生きています。また、めぐり合わせよっては、どんな恐ろしいことでもしてしまいます。このような私の姿に気付かせ、同時にそのまま救い取ってくださるのが阿弥陀如来の慈悲であり、そのこころを表すのが「悪人正機」という言葉です。